フランス 宗教 プロテスタント

 彼女は、一五一九年四月一三日、イタリアのフィレンツェFirenzeでウルビーノ公ロレンツォ二世・デ・メディチLorenzo di Piero de 'Medici(ロレンツォ・デ・メディチの孫)とオーヴェルニュ伯ジャン三世Jean de La Tour d'Auvergneの娘マドレーヌとの間に生まれた。父ロレンツォ二世は叔父の教皇レオ一〇世(在位一五一三~二一)によってウルビーノ公Urbinoに叙されたが、彼の亡き後はその称号を剥奪された。母マドレーヌはカトリーヌを出産するとまもなく黒死病に罹って亡くなり、一五一九年には父ロレンツォ二  以上のように、アンリ四世は、改革派信徒(ユグノー)の「信仰の自由」を保障し、(一定地域に限定はしたものの)公の「礼拝の自由」や、書籍の出版・販売を認めた。また、ユグノーがあらゆる地位・要職・官職・公務に就く権利も認めている。確かに「ナントの勅令」は新旧両派に完全平等の地位を与えたわけではないが、明らかに従来の寛容政策の枠を越えており、ながく続いた宗教戦争を終結させる力を持っていた。換言するならば、武力や論争では混迷したフランス王国の諸問題を解決することができないことが明らかとなり、新旧両派は現実的な政治レベルでの解決に身を委ねるしかなかったのである。一五九八年五月二日、フランス北部のピカルディ地方で結ばれたヴェルヴァン条約Vervinsによりユグノー戦争は終結の時を迎えることが出来た。西王フェリペ二世はこの条約締結によりカトー・カンブレジ条約(一五五九年)の時と同じ領土を仏王アンリ四世に認めることになり、やがて訪れるフランス絶対王政への出発点となったのである。註㉕, 終節 「繁栄の一六世紀」から「危機の一七世紀」へ 月二三日に「ロンジュモーLongjumeauの和議」を結び、アンボワーズ和解令の制限を撤廃してユグノーに対する「信仰の自由」を認めることになった。しかし、これを機にカトリーヌは宥和政策の破綻を認めてカトリック側に立つようになり、それまで宗教的融和策を推進してきた大法官ロピタルは罷免されて、ギーズ家一門が復権したのである。 *文中の地図は林田伸一「近世のフランス」(『新版世界各国史⒓ フランス史』所収第四論文、山川出版社) から複写し、写真は筆者が撮影したものである。, Email Address:  たが、新約聖書では会衆の霊的指導に当たる職となっている。教会の職制の一つとして明示されるのは宗教改革の時代のことであり、バーゼルの宗教改革者エコランパーディウスJohannes Oecolampadiusの提唱に基づいてストラスブルクのブーツァーが導入したのが最初である。カルヴァンは牧師・教師・長老・執事の四重職制を教会規定の形で制度化した。また、長老制は段階的合議制をとっており、 信徒代表が牧師職と構成する長老会(小会)、幾つかの長老会で作られる会議体(中会presbytery)、最終的には全国的組織(大会)となる。 その結果、フランスの宗教は、フランス革命以前はもともとカトリックの国であったのです。 約80%がカトリックやプロテスタントのキリスト教徒、500万人のムスリム人口、すなわち人口の10%がイスラ …  カルヴァンが取り組んだ第三の改革は、「信仰教育」である。信仰とはまさしく心情に根ざすものではあるが、感情的にただ「ありがたがる」ことではない。宗教改革者が掲げた信仰とは、「あなたまかせの無自覚さをしりぞけた、きわめて主体的で、自己自身の存在の問題を深くとらえた、確乎とした認識(知識)」である(渡辺信夫著『カルヴァン』六三~六四頁)。彼等はキリストの「御言葉」を教えられ(聞き)、それを受け入れる決断をすることによって信仰が始まると考えた。カルヴァンは、一五三七年二月、信仰教育に用いる教程「信仰の手引き」(第一回カテキズムcatechism)を作成している。そして第四の改革は、カトリック教会の教会法によって規定されてきた「結婚」観を排し、新たなる倫理規範を構築することであった。宗教改革者の多くは結婚をしているが、カルヴァン自身も一五四〇年八月に子連れの未亡人イドレット・ド・ビュルIdelette de Bureと結婚している。彼女とその夫(病死)はフランスから逃れてきた再洗礼派(アナバプテストAnabaptist 註⑥)であったが、カルヴァンの指導で再洗礼派から離れていた。夫と死別したイドレットの中に純粋な信仰心と優れた家政能力を認めたカルヴァンは、まさに市民的感覚をもって結婚に踏み切ったと言われている。もっとも、一五四二年七月二八日に誕生した長男は間もなく亡くなり、妻イドレットも一五四九年三月二九日に没している。以上の改革四項目が一五三七年一月、「ジュネーヴ教会教会規則」としてまとめられ、 同年四月に成立した「ジュネーヴ教会信仰告白」では「第一にわれわれは明言する。われわれは、己が信仰と宗教の規範として、聖書―すなわち、神の言葉によらずして人間の知恵が考え出した如何なるものも混じておらぬ聖書にのみ従いたいと決意するものである」と徹底した聖書主義を表明している。, (四)ジュネーヴ市会との対立 G・R・エルトン『宗教改革の時代一五一七―一五五九』(越智武臣訳、みすず書房)一五七~一七九頁、渡辺信夫『カルヴァン』(清水書院)一二~一一三頁、半田元夫・今野國雄『世界宗教史叢書2 キリスト教史Ⅱ』(山川出版社)九二~一二四頁各参照  註⑰ スコットランドでは一五五九~六〇年にプロテスタント(長老派教会・プレスビテリアンPresbyterianism, Presbyterian Church)の反乱が起こり、スコットランド王室を支援したフランス海軍はイングランド軍の介入で大打撃を受けた(一五六〇年七月六日、仏軍のスコットランド介入を禁止するエディンバラ条約Edinburghを締結した)。メアリ・ステュアートは一五六一年にスコットランドに戻ったが、 そのとき既にスコットランドの宗教改革は成功し、カトリックの彼女は孤立することになる。一五六五年七月二九日にイングランド王国の王位継承権を持つダーンリー卿ヘンリHenry Stuart, Lord Darnleyと再婚したが、その直後、政治顧問マリ伯ジェームズ・ステュアートJames Stewart(メアリの異母兄でプロテスタント)がエリザベス一世の支援を受けて反乱を起こした。この反乱はボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンJames Hepburn, 4th Earl of Bothwellが鎮圧した。翌六六年三月に重用していた秘書ダヴィッド・リッチオDavid Riccioが目の前で殺害されるという事件が起き、同年六月一九日には息子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ六世、イングランド王ジェームズ一世)をエディンバラ城Edinburgh内で出産した。一五六七年二月、ダーンリー卿の轢死体がカーク・オ・フィールド教会Kirk O'Field(エディンバラ)で発見された数日後、ボスウェル伯が女王メアリをダンバー城Dunbarへと連れ去り、五月一五日には結婚式を挙げた。しかし、まもなく反ボスウェル派貴族が決起し、六月一五日、カーバリー・ヒルで投降したメアリはロッホリーヴン城Loch Levenへと移され、七月二六日には廃位された。翌六八年五月、ロッホ リーヴン城から脱出したメアリは武装蜂起したもののあえなくマリ伯軍に敗れ、イングランドへ逃亡した。だが、彼女は相変わらずイングランド王位継承権者であると主張してエリザベス一世の不興を買い、エリザベス一世廃位の陰謀(一五七〇年リドルフィ事件、一五八六年バビントン事件)に関与したとされて死刑の判決が下され、一五八七7年二月一三日、フォザリンゲイ城 Fotheringayで処刑された。西王フェリペ二世がイングランドへ無敵艦隊(アルマダ)を派遣するのは翌八八年のことである。髙澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第三論文、山川出版社)一一三~一五一頁、三浦一郎『世界史の中の女性たち』(社会思想社教養文庫)九二~一一一頁、 岩根圀和『物語スペインの歴史』(中公新書)各参照 註④ 福音とは、イエス・キリストによってもたらされた神からの喜びの使信のことである。パウロは、福音の内容をイエス・キリストの死と復活を結びつけて「救い」の出来事と説いた。パウロ的な福音概念を継承したのがルターであり、彼は聖書に書かれたイエス・キリストの教えのみを福音とし、教会や聖職者の言葉ではなく、福音だけを信仰の拠り所とすべきであると主張した(福音主義・聖書主義)。したがって、福音主義という用語は、宗教改革の立場をとる考え方として使用されることが多い。   じたる一切の事件は、起らざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。なお、検事総長その他、公人・私人を問わず、なにびとといえども、これらの事件に関し、いかなる時、いかなる機会にあっても、これを陳述・訴訟・訴追することは、いかなる裁判所におけるを問わず、これを認めない。  第六条 余が臣民の間に、騒乱・紛議のいかなる動機も残さぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんら審問・誅求・迫害されることなく、生活し居住することを認める。彼らは、事宗教に関して、その信仰に反する行為を強いられることなく、また、本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追及されることもない。  1598年フランス国王アンリ4世がフランス西部のナントNantesで発した宗教的和解の勅令。 制限つきだがプロテスタントに信仰と礼拝の自由を認め,ユグノー戦争の終結をもたらした。 しかし1685年ルイ14世がこの勅令を廃止したため40万人のプロテスタントが亡命した。  ただし、カルヴァンは政治権力の必要性を認めていたものの、自分自身が神からその務めを命じられたとは受けとめてはいなかったと思われる。彼の政治に対する態度は、次のようなものである。すなわち、 神から政治権力を預かった者はこれを委託した神の意志から逸脱しないように細心の注意を払いながら統治行為を行う必要があり、統治される側の人民は政治の改善を求めても良いが、さまざまな権利を要求することは許されなかった。ただし、カルヴァンは説教者として政治権力を持つ者たちを神の御言葉に信服させただけでなく、教会代表として教会の要望を市政に反映させるよう要求・助言を繰り返したが、直接的な統治行為はとっていない。ルターが政治権力の教会監督権を容認していたのに対して、カルヴァンは神の意志と真理を決定するのはあくまでも教会であるとして、政治権力は教会を助け、教会が求める規律を忠実に実行する義務を持つと考えたのである。  一五四一年九月一三日、カルヴァンは再びジュネーヴに呼び戻された。ジュネーヴでは、カルヴァン以外にこの難局を切り抜けることができる人物はいない、との意見が他を圧倒したのである。しかし、カルヴァンはジュネーヴでの仕事を再び一からやり直さなければならなかった。前回同様、まずは教会諸規定を整え(一一月公布)、カテキズムを用意することから始めた。彼が再建した教会組織の最高責任者は牧師であり、一人の牧師以上の権威を持つことができたのは毎週開かれる牧師会のみであった(そこでは聖書の共同研究がなされた)。また、市会によって選出された一二名の長老たちは、牧師五名とともに長老会(コンシストワールconsistoire)を構成して教会員の信仰生活の規律を厳守させるとともに、長老会内部の誤りを是正する機能をも果たした。長老は教会内部の職だから本来であれば信徒間の選挙で選ばれるべきだが、カルヴァンたちの教会は未だ都市国家ジュネーヴの政治的権力から完全には分離できていなかったため、長老は市会によって選出されたのである。しかし、長老が教会内では牧師と同格の存在となり、 以前なら牧師のみが行い得た霊的指導という権能を持ったことの意義は大きい。牧師と長老がともに協力して、キリストの権威を鮮やかに浮かび上がらせるように教会の秩序を整える体制が誕生したのである。そして、司教制の廃止と長老制の導入は、宗教改革と政治的独立を結びつけることとなった。註⑦ F・ブローデル『地中海⑤』(藤原書店)二七四頁、F.Braudel & F.Spooner, “Prices in Europe from 1450 to 1750”、 The Cambridge Economic History of Europe, vol. (Not displayed with comment.  主文第一条・第二条では、一五八五年以前から起きてきた争乱に関する記憶を消滅させ、今後如何なる人物もこれについて言及し、訴訟を起こすことは許されないと言論を封じ、現状凍結で事態の収束を図っている。また主文第三条以下の要旨は次のようである。第一に、カトリック信仰は王国で支配的なものと認められ、これまで中断されていたカトリックの礼拝は再興され、奪われていた建物や財産は返却されなければならない。第二に、改革宗教の信者(プロテスタント)は王国内すべてで「良心の自由」を、 また一五九六/九七年に事実上礼拝を行っていた場所において、さらには貴族の所領とパリを除く上級裁判管轄領域内での「礼拝の自由」を有する。また、彼等は自由礼拝権を有する場所で宗務会議や教会会議を開催し、埋葬地を設け、学校や印刷所を建てることが出来る。第三に、改革宗教の信者は大学、学校、病院への受け入れに関してはいかなる不利益も課されない。しかし、商業活動に際してはカトリックの祭日を尊重し、(カトリック教徒と同じく)近親結婚の禁令や納税義務には服さなければならない。第四に、改革宗教の信者は市民権の権能において制限を受けず、あらゆる公職にも就くことが出来る。そして、公共の安寧、治安維持、係争事件の解決のために、新旧両派合同の(同等に構成された)法廷を設けなければならない、としている。また、高等法院に登録する必要のない認可書と秘密条項のうち、前者は改革宗教の信者に対して都市単位に年間総額四万五〇〇〇エキュの援助金を授与した。後者ではユグノーに対して向こう八カ月間、一〇〇カ所以上の安全保障地を認め、ユグノー派が保持している都市守備隊も同じ期間維持することが許されただけでなく、年間一八万エキュの補助金支給が約束されたのである。 註⑫ 一六世紀のフランスでは、学芸や生活習慣におけるイタリア化italianisationという形でルネサンスが進行する。一五一五年、ルネサンス君主の典型と言われるフランソワ一世はボローニャで開催した教皇レオ一〇世との和平会談の際にイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(一四五二~一五一九)を招き、翌年暮れにはアンボワーズ城近くのクルー荘園を与えてその居館(クロ・リュセChâteau du Clos Lucé)に住まわせた。レオナルドは一五一九年五月二日にこの邸宅で亡くなるが、最晩年の二年半ほどはフランソワ一世から年金を受け取り、ミラノ貴族フランチェスコ・メルツィFrancesco Melziらとともに暮らした。田村秀夫『ルネサンス 歴史的風土』(中央大学出版部)一九二~二〇六頁参照。ガリカニスムについては、拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)参照。  一五五九年、長く続いたイタリア戦争がようやく終結し、四月初めにはフランスと神聖ローマ帝国・スペイン王国との間にカトー・カンブレジ条約(カトー・カンブレジはフランス北部ノール県の町)が締結された。この条約で、フランスはイタリアへの権利を完全に放棄し、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸をハプスブルク家の統治下におき、その代償としてロレーヌ地方を譲り受けた。また、スペインのフェリペ二世は一五五八年、イングランド王メアリ一世と死別した後、仏王アンリ二世の娘エリザベートÉlisabeth de Valois(イサベル・デ・バロイスIsabel de Valois)と再婚し、フィレンツェ公国(メディチ家)はトスカーナ地方の都市シエナSienaを獲得した。しかし、ユグノー派が初めて全国教会会議を開催したこの年の暮れ、待降節adventus(一一月三〇日の「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約四週間)から次の年の四旬節Quadragesima(復活祭の四六日前の水曜日[灰の水曜日]から復活祭の前日[聖土曜日]まで)の期間、カトリック民衆による虐殺が続いた。六月二日に発せられた「エクーアン勅令」Écouenはユグノー派に対する宣戦布告だったが、法の施行に責任を負わなければならない高等法院自体は極めて寛容的な態度であった。そこでアンリ二世は激怒し、トゥールーズで有罪判決を受けた四名の異端に恩赦を与えたとしてアンヌ・デュ・ブールを焚刑に処し、高等法院部長アントワーヌ・フュメなどはバスティーユに投獄された。ところが同年七月、イタリア戦争終結を祝う馬上槍試合でモンゴメリ伯ガブリエル・ド・ロルジュの突き出した槍が国王の眼に刺さるという不慮の事故が発生し、アンリ二世は急逝した(七月一〇日、享年四一歳)。その結果、病弱でまだ一五歳という若さの王太子が王位を継承し、フランソワ二世Francois II(在位一五五九~六〇)として即位したのである。また王母カトリーヌはその後の半生を黒い喪服で過ごすことになるが、仇敵ディアーヌ夫人の宮中立ち入りを禁じた。もっとも彼女は、ディアーヌ夫人からシュノンソー城を取り上げるが、その代わりにショーモン城Chaumontを与えている。  一五八五年三月、ギーズ公の北フランス占領で再び戦闘が開始された。同年七月七日、国王アンリ三世はギーズ公に配慮して、ユグノーの礼拝禁止や改宗に応じない者の国外追放(牧師は一カ月以内、信者は六カ月以内に国外追放)、ナヴァール王アンリの王位継承権無効を内容とする「ヌムール勅令」Nemoursを発した。教皇シクストゥス五世Sixtus V(在位一五八五~九〇)もこれに呼応してナヴァール王アンリを破門し、彼が持っていたナヴァール王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言している(九月九日奪権回勅)。また、イングランド王エリザベス一世によるメアリ・ステュアート処刑(一五八七年二月一八日)は、カトリック世界全体を怒りの渦に巻き込んだ。これに対してナヴァール王アンリは、ドイツ諸邦やイングランド、デンマークに資金援助を求めるとともに国内のポリティーク派などと結んで、一五八七年一〇月二〇日、クートラCoutrasの戦いで国王軍・カトリック同盟軍・スイス人傭兵の連合軍を撃破することに成功した。しかしその直後、アンリ三世はドイツから来ていたユグノー派支援軍を破ってパリ市民の期待を集めるようになったギーズ公の存在が疎ましくなった。翌八八年五月、国王はギーズ公勢力を抑えようとして失敗し、一二日には旧教同盟派を中核とするパリ市民が全市にバリケードを築いて反旗を翻し、国王とその軍隊が敗走するという事件が発生した(五月一二~一八日、バリケードの日)。この市民蜂起の背後にはギーズ公の熱狂的人気やカトリック信者の宗教的情熱に加えて、パリ市民の自治都市再現への期待などが混在していたと思われる。いずれにせよ、パリの全権はパリ一六区に設けられた九人制の評議会と一六区代表、三身分代表からなる連合総評議会が掌握し、カトリック同盟はこの革命政権を全国に拡大しようと考えた。その時、年老いた王母カトリーヌが国王とギーズ公の仲介役を果たし、アンリ三世はカトリック同盟が求めたヌムール勅令の再確認や、ナヴァール王アンリの叔父ブルボン枢機卿シャルル一世 Charles Ier de Bourbon(ギーズ公派)の王位継承、ギーズ公の国王総代官任命など屈辱的な内容を呑むことになった(七月二一日、ルーアンRouenで「統一王令」に署名)。  ヴァシー事件後、ユグノー派は直ちに反撃に打って出た。コンデ公ルイ一世やガスパール・ド・コリニー提督Gaspard de Coligny(シャティヨン・コリニーの領主)を中心とするユグノー派は、シャルトル管区防衛長官ロベール・ド・ラ・エイ等を派遣してイングランド王エリザベス一世とハンプトン・コート密約Hampton Court を結び、兵士一万人とクラウン銀貨一〇万枚(クラウン銀貨一枚は五シリングに相当)という援助の見返りにカレーCalaisの返還とル・アーヴルLe Havreの担保がついた(秘密条項としてディエップDieppeとルーアンRouenの割譲も約束した)。その結果、イングランド軍はセーヌ河口のル・アーブルに上陸し、ユグノー派もフランス国内の諸都市を占拠した。しかし、国王軍も速やかに行動し、ユグノー派の拠点ルーアンを包囲した(一五六二年五~一〇月)。またドルーDreuxの戦い(一五六二年一二月)ではコンデ公ルイ一世を捕虜としたが、国王軍司令官モンモランシも捕らえられた。摂政カトリーヌはコリニー提督に帰順を呼びかけ、包囲戦で狙撃され死の床にあったナヴァール王アントワーヌのもとを訪ねている。しかし、六三年二月一八日、オルレアン包囲中のギーズ公フランソワはユグノー派のポルトロ・ド・メレという男が背後から撃った銃弾を受けて斃れるという事件が発生し、新旧両派とも戦争継続が困難となったこともあって、三月一九日にはアンボワーズ和解令(和解勅令)が発せられて休戦となった。この和解令はすべての臣下に「信仰の自由」を認めたが、「礼拝の自由」は貴族とりわけ上級裁判権を持つ貴族には認めたものの、一般民衆には極めて厳しい制約を課しており、パリ市内ではカトリックの礼拝しか認められなかった。 註㉗ Robert Muchembled, L'invention de l'homme moderne. 註① キリスト教の信徒が爆発的に増大した一一世紀頃、カトリック教会は一定条件の苦行を行えば暫有的罪は消滅するとした。そして一〇九六年の第一回十字軍派遣に際し、教皇ウルバヌス二世は従軍を苦行と認め、 非従軍者に対しては金品の寄進による罪業消滅を許した。やがて一三〇〇年には、教皇ボニファティウス八世がローマの聖ペテロ教会、聖パウロ教会への参詣・寄進を苦行の一部としている(「聖年」宣言)。そして一三九三年、教皇ボニファティウス九世は「贖宥状」(免罪符)の地方出張販売を開始し、指定された日時以内にローマ参詣や寄進を行った証として符(受取証)を交付した。一四五七年には贖宥状の効力が死後の浄罪界にまで及ぶと宣言し、地方での委託販売が開始された。一六世紀に入って、一五〇七年、教皇ユリウス二世が贖宥状総売上の三分の一を教皇庁に納入させ(販売許可料は別途納入)、一五一四年には教皇レオ一〇世が二分の一まで引き上げている。 世に反対されたことに立腹し、翌年議会の協賛を得て国王至上法(首長法)Act of Supremacyを定め、国王を最高の長とするイングランド国教会Church of Englandを成立させた。その後、一五三六年、三九年には修道院を解散させ、ローマ派教会や修道院の土地・財産を没収してジェントリ(郷紳)gentryに売却している。ヘンリ八世は、再婚した王妃アン・ブーリンAnne Boleyn(エリザベス一世の生母)を反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪でロンドン塔に幽閉したうえ斬首刑とした(一五三六年五月一九日)後、3度目の結婚相手に選んだのが前の二人の王妃に仕えていたジェーン・シーモアJane Seymour(エドワード六世の生母。産褥死)という女性であった。ヘンリ八世はその後も、アン・オブ・クレーヴズAnne of Cleves(一五四〇年結婚、同年離婚)、キャサリン・ハワードKatherine Howard(アン・ブーリンの従姉妹、一五四〇年結婚、一五四二年離婚・刑死)、キャサリン・パーCatherine Parr(一五四三年結婚)と続けて不幸な結婚を繰り返す。そして、シーモア家はジェーンが唯一の嫡子エドワードを産んだことで王室に深く関与することに成功する。  エドワード六世Edward VI(在位一五四七~五三)がわずか九歳の幼さで王位に就いた一五四七年、サマセット公エドワード・シーモアEdward Seymour, 1st Duke of Somersetは王室の実権を掌握したが、その間、一五四九年と一五五二年の二度にわたって祈禱書が作成され、イングランド国教会の脱カトリック化が進んだ。しかし、一五五二年始めにはエドワード・シーモアが王権壟断と反逆の科で処刑され、次いでノーサンバランド公ジョン・ダドリーJohn Dudley, 1st Duke of Northumberlandが実権を奪った。やがて病弱な国王の死期が近いと察知したノーサンバランド公は、自分の六男ギルフォードをエドワード六世の従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイJane Greyと結婚させて彼女を次の国王に据えようと画策した。死の床にあったエドワード六世は、結局それを了承して七月六日に亡くなった(享年一五歳)。ノーサンバランド公は王位継承権者メアリの身柄を拘束しようとしたが、身の危険を察知したメアリはノーフォーク公トーマス・ハワードThomas Howard, 3rd Duke of Norfolkに匿われロンドンを脱出する。七月一〇日にはジェーンがロンドン塔に入城して王位継承を宣言したが(ジェーン女王〔在位一五五三年七月一〇~一九日])、一方のメアリも一三日にイングランド東部のノリッチNorwichで即位を宣言した。やがて多くの支持者がメアリのもとに集結し、ノーサンバランド公の軍隊を撃破した。こうしてロンドンに呼び戻されたメアリは改めて「正統」の女王メアリ一世Mary I (在位一五五三~五八)の即位を宣言し、ノーサンバランド公とその子ギルフォード、そしてジェーン・グレイをいずれも反逆罪で斬首刑に処した。 →ヨーロッパの民族分布 →ヨーロッパの宗教分布 を知識としておさえることが最低限求められています。 (社会科に詳しい方ならすぐにイメージが付くと思いますが)民族分布と宗教分布の地図を比較して、「気づくことは何かなー?  ところで、宗教改革の開始以降、新旧両派がともに公会議の召集を模索していたのに対して、フランソワ一世やイングランド王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)は公会議開催によってドイツ国内の宗教的対立が解消することを危惧していた。一五三七年五月二三日に召集されたマントヴァ公会議Mantovaは、ドイツ国内のシュマルカルデン同盟Schmalkaldischer Bund(一五三〇年結成)が事前に公会議への招請を拒否し(同年二月二四日)、フランソワ一世も開催地が皇帝の勢力圏内にあることを理由に断ったため開催が不可能となった。しかし、独帝カール五世はプロテスタント側との和解を追求し、一五三八年、フランスとの間に「ニームNîmesの和議」を結んで、一時的な休戦を実現させた。ところが、スペイン=ヴェネツィア連合艦隊がオスマン帝国海軍に敗れて(一五三八年、プレヴェザPrevezaの戦い)恐怖のどん底に陥れられた神聖ローマ帝国では、皮肉にも新旧両派の対立を解消する絶好の機会が訪れた。一五四一年には、そのオスマン帝国が再びハンガリーへの侵攻を開始した。カール五世がレーゲンスブルクRegensburgで調停工作に乗り出したとき、教皇パウルス三世Paulus III(在位一五三四~四九 ユグノー(フランス語: Huguenot)は、フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派。フランス絶対王政の形成維持と崩壊の両方に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて亡命先の経済を著しく発展させた。その活躍は、まずとびぬけてイギリスでみられたが、ドイツでは順当な規模であった。, 語源はスイスにおいてサヴォワ公に反対した「連合派 (Eidgenossen)」に由来するといわれ、民間信仰における化け物「ユゴン王」に結びつけられていた[1]。, ドイツ語アイトゲノッセ(Eidgenosse、「盟友」)のフランス訛りエーグノもしくはエーニョ(Eignot)に、ジュネーヴの同盟党(ジュネーヴとスイス連邦の同盟を推進するプロテスタントの一派)の党首ブザンソン・ユーグ(Bezanson/Besançon Hugues)の姓を掛け合わせたものといわれており[要出典]、元々は蔑称であった。当時のプロテスタントは、カトリックなどから蔑視されており、同様な蔑称にネーデルラントのゴイセン、イングランドのピューリタンなどがある。, デジデリウス・エラスムスとジャック・ルフェーヴル・デタープルの影響が大きいといわれる。しかし、彼らはローマ・カトリック教会の側であり続けた。, フランスの福音主義の最初期のものはルフェーブル・デタープルによるパウロ書簡注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。, 1518年-1519年にマルティン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられ、当初はソルボンヌの学者たちもルターに共感していたが、ローマの教会がルターを非難したため、1521年以降は、プロテスタント信仰を持つ者は、火あぶりか亡命の他に選ぶ道が無くなった。, フランスで最初の殉教者は1523年8月8日に生きたまま焼かれたアウグスティヌス会修道士ジャン・ヴァリエールであった[2]。1546年10月7日ピエール・ルクレール牧師と礼拝の出席者は生きたまま火あぶりにされた[3]。, 1520年代から1540年代のフランス宗教改革はルターの影響を受けていたが、次第にジャン・カルヴァンの影響が強くなる。, 改革派は影響力を増大させ、1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こった。, 国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世は1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。, 1550年代になるとカルヴァンの指導の元で改革派は組織化が図られた。フランス最初の改革派教会は1546年に建設された。また、ジュネーヴからは160人以上の牧師が派遣された[4]。, 1559年には地下で第1回全国改革派教会会議が開かれ、フランス信条が告白され、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。, このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。, アンリ2世の死後は、その妃で実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だった。, 1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった。以後1598年のナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。, 1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。, ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。影響は全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ, 改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。, 1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを保護者 ("Protecteur")として推戴した。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されており、ユグノーの共和政的政治思想の影響もある[5][6]。, カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。, ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、ユグノー戦争は国際的な宗派対立と密接に連動していた。, 一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルク外交としてオスマン帝国に接近した。グレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持し、またグレゴリウス14世は軍を派遣した。, ハプスブルク家のフェリペ2世が1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。, アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から1597年の間、王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令を1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。, しかし、改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリやノルマンディーの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌやラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。, アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。, しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠せず1625年に再び戦闘が開始された。, 宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。, 1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を従属させるものであった。, 1660年までの30年間は、改革派が王権への臣従姿勢をみせ、比較的安定した時期であった。リシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラール(英語版)も改革派であった。とはいえ、マザランは改革派の会議開催を禁止するなど圧迫が加えられてもいる。, ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われ、公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年のドラゴナード制度では竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制させた。1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。, 1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言(フォンテーヌブローの勅令)され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。ユグノーの多くはドイツをはじめとする国外に移住した。しかし国内に留まる一派もおり、カミザールの乱(1702年 - 1705年)で蜂起したが、鎮圧されて生き残ったユグノーはオランダ・イングランドへ亡命した。, ユグノーは16~17世紀のフランス経済に大きな影響を及ぼした。マックス・ウェーバーはユグノーが「フランス工業の資本主義的発展の最も重要な担い手の一つ」[7]と述べている。一方でウェーバーの研究に影響を受けた日本の大塚史学においては、ユグノーの経済史的役割は概して冷淡に扱われた[8]。, フランスのプロテスタンティズムはその最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争によって5%程度まで減少した[9]。その内訳は貴族・農民・手工業者・商人・金融業者など多様な社会階層に及んだ[10]。そのうち貴族層は前述したように政治的意図が濃厚であったので、その目的が達成されたユグノー戦争後には、そのほとんどが早期に信仰を離れた。ユグノーが大きな勢力を持った南部では、農民層にもプロテスタンティズムが浸透し、彼らの貢献によりこの地域は内乱の被害著しかったにも拘わらず、早期に復興を成し遂げた。しかしとりわけブルジョア層においてプロテスタンティズムは広く浸透した。, ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であった。コルベールは重商主義政策の柱に国内の金融業・商業・工業の発展を据えていたので、当然その担い手であるユグノーを保護し、これと提携する道を選んだ。, 毛織物工業では、ラングドック・プロヴァンス・ドフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが大量に生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンも北ドイツへの輸出用ラシャを生産し、毛織物工業の中核でもあったが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた[11]。, 絹織物工業においては、17世紀中葉トゥール・リヨンにおける顕著な発展が知られるが、それはユグノーの貢献に拠るところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、リンネルはイギリスへの輸出用商品として貴重なものであった[12]。オーヴェルニュやアングモアでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イギリスやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良のものとされていた。, これらの工業は一般的にナントの勅令廃止後に衰退した。ウォーラーステインはナント勅令廃止がフランス産業革命の立ち後れをもたらしたと指摘する[13]。, ただし、W・C・スコヴィルは宗教的迫害の激しくなる時期と経済的衰退の時期が一致しないことを挙げ、むしろルイ14世の対外戦争に対抗した諸外国による高額の関税、インド産綿布の普及、国家による経済統制や国産品税の導入などがその原因とする[14]。C・ヴァイスはナントの勅令を経済的衰退の原因とする[15]。, ラ・ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にもユグノーは多大な寄与を為していた。ボルドーにおいては主にイギリス・オランダとの交易を担い、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易をほぼ独占していた[16]。, ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。またユグタン家も有名である。もともとリヨンの出版業者であったが、1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した[17]。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている[18]。, カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論モナルコマキが現れた。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。[19], ベーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族によってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はベーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ベーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。, カトリック同盟の側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。, CROSSROADS OF ENLIGHTENMENT 1685-1850: EXPLORING EDUCATION, SCIENCE, AND INDUSTRY ACROSS THE DELESSERT NETWORK, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ユグノー&oldid=79772424, 森川甫著『フランス・プロテスタント苦難と栄光の歩み-ユグノー戦争、ナント勅令、荒野の教会』西部中会文書委員会. 世)の結婚式が挙行された。   その間、ナヴァール王アンリやコンデ公アンリは、元ユグノー派牧師ユーグ・シュロー・デュ・ロジエやブルボン枢機卿の説得を受け容れてカトリックに改宗し、辛うじて死を免れた。しかし、フランスにおけるユグノー派弾圧は苛烈を極め、恐慌状態に陥った人々の中にはカトリックへの改宗をしたり、国外逃亡を図る者も続出した。こうした情報に接した西王フェリペ二世はフランス大使サン・グアールを宮中に招いて談笑し、教皇グレゴリウス一三世Gregorius XIII(在位一五七二~八五)は祝砲を撃ち上げてカトリックの勝利を喜んだ。この後、ヴァザーリGiorgio Vasariは教皇の命令でフレスコ壁画「聖バルテルミの虐殺」(ヴァチカン宮殿)を描くことになる。対照的にイングランド王エリザベス一世は精神的ダメージを受けて喪に服し、駐仏大使ウォルシンガムを召還して抗議の意志を示した。しかし、ユグノー派は民衆を担い手とする抵抗運動を組織し、ロワール川中流のサンセールSancerreや武将ラ・ヌーが死守した大西洋岸の城塞都市ラ・ロシェルなどで激しい戦闘を繰り返した。特にラ・ロシェルでは、市長ジャック・アンリと商業資本家ジャック・サルベールが一三〇〇人の兵士とブルジョワ市民軍からなる守備隊を結成して徹底抗戦を続けた。一五七三年の聖燭祭 Candelaria(二月二日、聖母のお潔めの日Purificatio Maria)の数日後、アンジュー公アンリが率いる先遣隊に合流するため、アランソン公、コンデ公、モンモランシ公など多くの貴族が本来の宗派の壁を乗り越えて一緒にパリを発った。しかし、この混成部隊に亀裂が入るのに時間はかからなかった。当てもなく続く攻囲戦の中でポリティーク派をアランソン公の味方に引き込んだモンモランシ公はギーズ家一門を襲撃し、アランソン公はアンジュー公の部隊を攻撃する始末であった。こうしてユグノー派に対する攻撃は事実上困難となり、同年七月、ついに「ブーローニュ勅令」Boulogneが発せられて全てのユグノーに「信仰の自由」が与えられただけでなく、南部の3都市(ラ・ロシェル、ニーム、モントーバンMontauban)では「礼拝の自由」も認められた。註㉑  1.イングランド宗教改革 )の血を引くナヴァール王アンリが王位継承者として選ばれた(註㉒)。何故なら、ブルボン家の祖であるクレルモン公ロベールRobert de Clermontはルイ九世の六男であり、フィリップ三世Philippe III(在位一二七〇~八五)の末弟だったことでカペー家男系支流の一門となっており、ナヴァール王アンリはその家長であった。しかし、当時の彼は従弟のコンデ公アンリとともに教皇から破門された身にあり、ユグノーとしての信仰を捨てる意志のないことを表明していた。そこで同年一二月、宿敵ギーズ公アンリはカトリック同盟を代表する形で西王フェリペ二世と「ジョアンヴィル条約」Joinvilleを締結し、「異端」との戦争の準備をした。その当時、フェリペ二世は一五八〇年にスペイン=ポルトガル同君連合を成立させてヨーロッパ各地のカトリック支援を強化しており、彼としても渡りに船だった。一五八五年三月、ギーズ公アンリはピカルディ地方のペロンヌPéronneで旧教同盟を再結成し、ナヴァール王アンリの仏王位継承権を否定する宣言を発した(三〇日)。フランス王位への野心に燃えるギーズ家一門を中心に、彼らと保護=被保護関係で結ばれることによって特権回復や全国三部会の定期的開催を求める貴族たち、急進的なカトリック聖職者たちに加えて、多くの都市住民が自生的な組織をつくってギーズ家側に加わった。パリの場合、聖職者や司法役人、富裕商人層を中核とするグループが、パリ一六区内部とりわけ民兵組織の中に密かに根を張るようになった。二年後の六月、リヨン、オルレアン、ボルドー、ブールジュ、ナントなど多くの都市がパリの旧教組織と同盟関係を結んだ。こうしてユグノー戦争は、 国王アンリ3世(ヴァロワ朝)、ナヴァール王アンリ(ブルボン家)、ギーズ公アンリ(ギーズ家)が三つどもえの抗争を展開する「三アンリの戦い」という段階へと移行した。 註⑱ ネーデルラントは古くから毛織物業や商業で栄えていたが、商業革命以後はフランドル地方のアントウェルペンAntwerpen(仏語Anvers)が国際商業の中心地となった。一六世紀後半、西王フェリペ二世はネーデルラントにカトリック信仰を強制し、都市に重税を課したため、一五六六年、貴族たちが自治権を求めて決起した。この反乱にカルヴァン派(ゴイセンGeusen)の商工業者が加わってオランダ独立戦争(一五六八~16〇九年)が勃発した。 フランス宗教戦争期における政治と宗教 40 ると考え、一部の都市で自発的に結ばれた友好協定pactes dʼamitiés に注目した6。この協 定では、カトリックとプロテスタント両宗派の 融和と連を維持し新たな … 註⑪ G.R.Elton, Reformation Europe 1517-1559, London, 1963(The Fontana History of Europe). 註⑳ Philippe Erlanger, Le Massacre de la Saint-Bartélemy, Paris, 1960.  ところがカルヴァンは、一五三五年一月、バーゼルBaselを訪れて『キリスト教綱要』初版を脱稿し、 フランソワ一世への献呈の辞を書き加えている。おそらく、その理由としてはフランソワ一世の落ち着かない宗教政策が挙げられるのではないか。カルヴァンの書いた『キリスト教綱要』の内容は、「信仰は聖書を基準とし、救済は信仰によってのみ得られる」とする福音主義(註④)そのものであるが、同時にフランソワ一世に対する反論という側面も併せ持っていた。出版は翌年三月まで遅れ(第二版一五三九年、 第三版一五四三年、第四版一五五〇年、最終版一五五九年)、生活に窮したカルヴァンはプロテスタントを保護していた北イタリアのフェラーラ公Ferrara の宮廷を訪ねている(一五三六年二月)。フェラーラ公エルレコ二世Ercole II d'Esteはカトリックの信奉者であったが、公爵夫人ルネRenee de France(国王ルイ一二世の娘。フランソワ一世の妃クロードの妹)は新教徒に対する理解者であった。しかし、やがて皇帝カール五世によるフェラーラ公国に対する圧力が強まり、宮廷の客人たちは四散するしかなかった。カルヴァンは西へ向かい、ピエモンテ地方の町アオスタAostaからサン=ベルナール峠越えでスイスに入り、 バーゼルからマルチン=ブーツァーMartin Butzer(一四九一~一五五一)やヴォルフガング=カピト Wolfgang Capito(一四七八~一五四一)など高名な指導者の住むストラスブルクへ向かうつもりであった。ところが、そのルートは仏王フランソワ一世と皇帝カール五世の戦いで通行不能となっており、やむを得ず一旦リヨンに出てからジュネーヴ Genève入りを目指すことになった。  そして、コリニー提督狙撃事件の二日後にあたるサン・バルテルミSaint-Barthélemyの祝日(八月二四日)の朝四時頃、ユグノー派による報復を怖れたギーズ公アンリ、その伯父オーマール公とアングレームの私生児アンリ等が大勢の兵士を率いてコリニー提督の宿舎を襲撃した。提督はチェコ人ジャン・シマノヴィッチ(ベーメン出身であるためベームと呼ばれていた)の猟槍で突き刺され、窓の外に放り投げられた。瀕死の提督はトッシーニという男によってとどめを刺され、ヌヴェール公の従僕ペトルッチが首を切ってルーヴル宮殿に運び込んだ。ところが、「どぶ板の私生児たち」(ジュール・ミシュレJules Michelet)が死骸に飛びかかって切り刻み、セーヌ河岸まで引きずっていった。その後、血に飢えた民衆が遺体を引き取ってモンフォーコンMontfauconの死刑台に吊り下げ、その下で火を焚いて歓喜の声を上げたという。コリニー提督の死を確認したカトリーヌは、サン・ジェルマン・ローセロワ教会St-Germain l'Auxerroisの鐘を乱打させた。そして、この鐘の音が合図となって大規模な民衆暴動が発生し、国王派兵士とカトリック市民はユグノー派の貴族や市民たちを男女のみさかいなく、そして子どもまでをも惨殺したのである。パリの都市機能はほぼ崩壊し、市民たちの憎しみの感情はユグノーという宗派だけでなく、 ユグノー派貴族層の「豊かさ」に対しても向けられていた。彼等にとっては、帯剣貴族や法服貴族、商業資本家の区別は意味をなさず、ただ単にユグノー派という「貴族階級」に見えたのである。一五七二年当時のパリは、貨幣価値が下落して物価上昇が続き、夜ともなれば夜盗が横行する無法地帯と化していた。多くの浮浪者、乞食、荒んだ生活を強いられていた労務者、盗人たちにとって、物質的繁栄を「神の好意の表れ」とみなして謳歌していたユグノー派は許すことの出来ない存在でしかなかった。パリにおける虐殺は約一週間続き、約三〇〇〇人前後が犠牲者となった。その後、殺戮の嵐はフランス全土に吹き荒れ、秋までに一万人を超えるユグノーが殺害されたと言われる。  一五六七年九月二八日、西王フェリペ二世が派遣したアルバ公の軍隊通過に怯えたユグノー派は、コンデ公を中心にシャルル九世を襲撃して自陣営に引き込もうとして失敗した(モーMeauxの奇襲)。不意を突かれた宮廷は、スイス傭兵六〇〇〇人に護られながらパリへと逃げ帰った。ユグノー派はその後、ビスケー湾の港湾都市ラ・ロシェルLa Rochelleなど幾つかの都市を征服し、ジャンヌ・ダルブレやその息子アンリ・ド・ブルボン(後のアンリ四世)が合流している。また九月二九日(聖ミカエルの祝日)、南フランスのニームではユグノー派がカトリック教徒一五〇人を井戸の底に投げ落とすという虐殺事件(ミチェラードMichelade)を起こしている。同年一一月一〇日に発生したサン=ドニの戦いは国王軍の勝利となった(この戦いで司令官モンモランシが戦死)が、プファルツ選帝侯の息子ヨハン・カジミール率いるドイツ軍の支援を受けたユグノー派はシャルトルChartres占領に成功している。その後、ユグノー軍はロワール川沿いのオルレアンやブロワBloisを攻略してパリに迫った。やがて戦いに疲れた両軍は、翌六八年3   ユグノー派軍は先ずラ・ロシェルを防衛するためにポワトゥーPoitouなどサントンジュ地方の諸都市を包囲し、アングレームAngoulêmeやコニャックCognacを攻撃した。しかし、一五六九年三月一六日、ジャルナックJarnacの戦いで領袖コンデ公ルイ一世が戦死し、やむを得ず息子アンリ(一五歳)を名目上の司令官として実際はコリニー提督が指揮を執ることになった。また、国王シャルル九世の権威に対抗するため、ナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレの息子アンリ・ド・ブルボン(一六歳)を指導者とした。その後、ユグノー派軍はラロシュ=ラベイユLa Roche-l'Abeilleの戦い(六月二五日)で勝利を収めたものの、 一〇月三日のモンコントゥールMoncontour(ブルターニュ地方)の戦いでは大敗を喫してしまう。やがてフランス南西部で体勢を建て直したユグノー派軍は、一五七〇年春にトゥールーズToulouse を陥落させてローヌ川沿いに北上し、パリから約二〇〇キロのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールLa Charite-sur-Loire まで迫った。しかし、ここで両軍は軍資金の問題もあって妥協し、八月八日「サン・ジェルマンの和議」を結んでいる。この和議では、ユグノー派の「信仰と礼拝の自由」についてアンボワーズ和解令(一五六三年)の線まで戻ったばかりでなく、ユグノー派に対してラ・ロシェル、モントーバン、ラ・シャリテ、コニャックという四都市を安全保障都市として認めるという画期的な譲歩がなされた。註⑳, (二)「サン・バルテルミの虐殺」と戦争の激化  第21条 改革派宗教に関する書籍は、その公の礼拝の許されている都市における以外は、公に、印刷・販売されてはならない。   第1条 第一に、一五八五年三月初め以来余の即位に至る間、さらには、それに先立つ騒乱の間に、各地に生     しかし、経済の繁栄が人々の心性に安定をもたらすとは限らない。一六世紀という大きな変動の時代は、社会の格差拡大が顕著になる時期であり、世紀後半は地球の小氷河期に相当したから天候不順による凶作・飢饉が追い打ちをかけた。一六世紀前半に始まるルターやカルヴァンの宗教改革は、後半に入って果てしない宗教騒擾の時代をもたらした。カルヴァン派の全国教会会議が初めて開催された一五五九年頃から新旧両派の騒擾が多発し、「悪さをする幽霊」という意味のユグノーHuguenotという語句がプロテスタント(新教徒)を意味する言葉として定着する。ただし、新旧両派の暴力行為はただ単に憎悪の発作による無軌道な行動ではなく、それぞれが持っている〈真の教義〉を擁護し、〈偽りの教義〉を論破する説教にも似た目的を有していたと言われる。また、当時のキリスト教信仰は信者個々人の内面的な営みとは限らず、家族や教区、村落といった共同体的な絆の中で行われる行為でもあったから、異端を自分たちの共同体を汚す存在と見なし、神の怒りを鎮め、異端によって傷つけられた社会的身体の統一を回復して真の統一を生み出すためには、異端という汚れを祓う必要があると考えたようである。プロテスタントの場合は聖具や聖画像に汚れを認めてその破壊に力を注いだ(偶像破壊運動)が、カトリック教会は異端者の身体を汚れの源泉ととらえて殺戮と死体冒瀆を行い、異端根絶に血道を上げた。フランス全土で一万人を超えるユグノーが惨殺されたサン・バルテルミ事件はその典型である。そして、宗教騒擾を引き起こす群衆の中核をなしたのは信心会、祭りの組織、若者組、民兵組織など共同体の中で重要な役割を担っていた集団であった。異様なまでに宗教的情熱が高まって新旧両派が激突した一六世紀後半、司法官ら都市部のエリート層は農村民衆の異教的伝統の中に「悪魔の陰謀」を見いだし、その宗教的・文化的征服に乗り出したのが、悪魔と契約しその手先となる魔女を告発する「魔女狩り」だと言われる。魔女狩りが最も盛んに行われたのはユグノー戦争期の一五六〇~一六三〇年(とりわけ一五八〇~一六一〇年)で、魔女狩りに新旧両派の区別はなかった。註㉗ 世紀半ば以降、国王権力は都市財政に介入し始め、都市的新興貴族層と結んで国王課税を実現してきたが、彼らは国家の重要役職に補任されて社会的地位と利益を獲得していく。特に行政の中心都市では国王役人の数が増加し、租税法院や会計法院がおかれたモンペリエMontpellierでは、一五五〇~一六〇〇年の間に総人口が一万二五〇〇人から一万五五〇〇人に増えたのに対して、役人の数は一二四人から四四一人へと約四倍近く膨れあがっている。  一五世紀初め、明帝国永楽帝の治世に、ムスリムの宦官鄭和が率いる大艦隊が南シナ海からインド洋を経て東アフリカのマリンディに至る南海遠征を敢行した(一四〇五~三三年、七回実施)。その結果、従来の中国を中心とする朝貢交易圏とムスリムのインド洋交易圏が結びつき、琉球王国、マラッカ海峡、南インド沿岸、紅海沿岸などを結節点とする東西交易ネットワークが成立し、同世紀末には香辛料の直接獲得に乗り出したポルトガル王国がこのネットワークに参入した。そしてほぼ同時期、スペイン王国は銀を求めてアメリカ大陸に進出し、ポトシ銀山やサカテカス銀山で産出された大量の銀をアカプルコ貿易(ガレオン貿易)でマニラにもたらし、同じくガレオン船でヨーロッパに輸送した。こうして東シナ海、南シナ海、インド洋だけでなく、大西洋と太平洋も東西交易ネットワークに加わり、全地球規模の交易網が誕生した。大西洋沿岸諸国の繁栄をもたらした「商業革命」は、「価格革命」と呼ばれる物価騰貴を発生させ、 それまで停滞していたヨーロッパ経済に活気を与えて、所謂「繁栄の一六世紀」を現出させたと言われている。ただし、一六世紀後半のメキシコ銀(墨銀)を中心とするアメリカ銀の流入が直接的に価格革命を引き起こした訳ではなく、近世三〇〇年間をかけて形成されたヨーロッパ市場は従来から緩やかなインフレ傾向を示しており、銀の流入が更なる押し上げ効果を発揮したのである。そして貨幣経済はやがて農村社会にまで浸透し、農民の一部は経済力をつけて領主から自立するようになる。次のグラフはF・ブローデルFernand Braudel(一九〇二~八五)が一四五〇~一七五〇年のヨーロッパにおける六〇弱の都市および地域における小麦価格の推移を集計したもので、「馬の首」として知られるものである。このグラフから一六世紀ヨーロッパにおける小麦価格の急騰が明らかであり、既に普及していた貨幣地代の固定化は、領主層に対して極めて多大なるダメージとなって社会階層の流動化を促すことになった。また、東部ドイツやポーランドでは西欧から毛織物や奢侈品を輸入し、代わりに穀物や原材料を輸出するために農場領主制(グーツヘルシャフトGutsherrschaft)が成立した。註㉖  マドリードで幽囚の身となったフランソワ一世は、カール五世と教皇の関係を分断する目的でフランス国内における新教徒迫害指令(一五二五年)を出し、一五二六年には屈辱的なマドリード条約を結んで釈放された。帰国したフランソワ一世は条約不履行を宣言して、スペイン=神聖ローマ帝国連合に対抗するためにフランス南西部でコニャック神聖同盟Cognac(教皇・仏・英・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ)を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ・デステAlfonso d'Esteを破門し、ローマに幽閉した。また、 ドイツではヘッセン方伯フィリップ一世ら改革派諸侯によるゴータ・トルガウ同盟Gotha-Torgauが結成され、カトリック側のデサウ同盟Dessau に対抗している。翌二七年、周到な準備を重ねたフランソワ一世は戦争を再開したが、その時彼はゴータ・トルガウ同盟の支持を得るために一転してプロテスタントへの迫害中止命令を発している。一方、独帝カール五世はフランスと結んだ教皇クレメンス七世への報復のためにブルボン公シャルル三世をローマに派遣し、同年五月六日の戦闘で教皇軍を撃破した(教皇はティベル川右岸のサンタンジェロ城Castel Sant'Angeloに逃げ込んだ)。シャルル三世の指揮する皇帝軍はローマ包囲に成功したが、指揮官が狙撃で落命し、統制を失った皇帝軍は破壊と略奪の限りを尽くした(ローマ略奪Sacco di Roma)。皇帝軍は教皇の降伏(六月)後も居座り続け、この混乱の中で「イタリア・ルネサンス」は終焉の時を迎えたのである。 « 2014年東京大学入試 世界史解答例 | フランス王家とローマ教皇は、次第に政治運動化しつつあったジャンセニスムを禁圧し、運動自体はフランス革命前には消滅したが、思想的な影響はその後も長く残った 。 フランス革命辺りから、啓蒙思想が台頭し宗教から距離を置く勢力が登場した。  ところで、アンリ二世の治世の間に、フランス政界で大きく台頭するのがギーズ家 Guiseである。ギーズ家は、ロレーヌ公国の君主家門ロレーヌ家の分家で、ロレーヌ公ルネ二世の次男クロードに始まる。クロードはフランソワ一世に仕えて公爵位とプランス・エトランジェPrince étrangerという地位を獲得し、フランス宮廷において極めて高い序列をしめるようになった。彼の長女メアリ・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ五世James V(在位一五一三~四二)の妃となり、一五四二年一二月八日、二人の間の第三子(長女)として誕生したのがメアリ・ステュアートMary Stuart(スコットランド女王メアリ一世、在位一五四二~六七)である。しかし、彼女は生誕まもない一二月一四日に父が急死し、兄二人が早世していたためにわずか生後六日で王位を継承した。摂政にはジェームズ二世の曾孫アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任し、イングランド王ヘンリ八世の要求で王太子エドワード(後のエドワード六世)と婚約させられたりもした。一五四七年、イングランドの実権を掌握したサマセット公エドワード・シーモアがスコットランドを攻撃し、 迎撃したアラン伯は大敗を喫した。危機に瀕したスコットランドでは、翌四八年、王母メアリの計らいで女王メアリ・ステュアートを仏王アンリ二世のもとに移し、彼女は以後フランス宮廷で育てられることとなった。やがて一五五八年四月二四日、メアリ・ステュアートと仏王太子フランソワ(後のフランソワ二   ところで、フランソワ二世の即位は、王妃の外戚に当たるカトリック貴族ギーズ家一門とユグノー派貴族ブルボン家の対立を表面化させた(註⑯)。即位式の翌日、王妃の伯父にあたるロレーヌ枢機卿やギーズ公フランソワは国王夫妻とともにルーヴル宮殿に入り、ユグノー派弾圧に着手した。一方、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌ(ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンAntoine de Bourbon, duc de Vendôme)やその弟コンデ公ルイ一世Louis Ier de Bourbon-Condéを盟主としたユグノー派は、ギーズ家打倒とブロワ城にいた国王の拉致を謀ったが、(弁護士ダヴィネルがロレーヌ枢機卿にその情報を漏らしたため)事前に露見してしまった。ギーズ家は、ユグノー派の動きを察知して宮廷をロワール渓谷のアンボワーズ城Amboiseへと移し、城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけて指導者ラ・ルノディー等を惨殺した。捕縛された一五〇〇人以上のユグノーたちは、宮廷人の目の前でそれぞれ絞首刑、斬首刑、車裂の刑に処され、見せしめとして晒されたという(一五六〇年三月、アンボワーズ陰謀事件 la Conjuration d'Amboise)。

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